稲田朋美防衛相が断言! 「百人斬りはなかったと思っている」

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第三次安倍内閣の組閣人事も済み、稲田朋美防衛大臣の就任が話題になっています。安倍総理と近い考えの稲田氏。中韓の牽制はすでに始まっていますが、歴史認識について明言を。南京事件に於いて、百人斬りはなかったとインタビューに答えました。


2015年の日本!百人斬り裁判の弁護士 自民党政調会長「稲田朋美」

稲田朋美防衛相は歴史認識を重視

稲田朋美防衛相は4日、産経新聞などのインタビューで「中国と建設的な協力関係を強化し信頼醸成を図ることが大変重要だ。機会があれば訪中したい」と述べ、中国訪問に意欲を示した。昭和12年の南京攻略戦について報道された旧日本軍の「百人斬り」については「なかったと思っている」と指摘。南京事件に関しては「30万人、40万人という数が南京大虐殺の数として指摘されている。数がどうであったかという問題は重要なことだ」と述べた。

 

稲田氏をめぐっては、中国、韓国のメディアが「右翼」と批判しているが、両国との関係について「話し合いの場を設けていきたい。議論することで私に対する誤解も払拭されていくのではないか」と強調。韓国との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)早期締結や、中国との偶発的な衝突を回避する「海空連絡メカニズム」の運用開始に意欲を示した。

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稲田朋美防衛相は「百人斬り訴訟」の弁護士として、南京事件の不当性を訴えてきました。防衛大臣という重要閣僚の立場で、歴史認識を重視していくという発言は大変心強いです。

「百人斬り」とは何か?

百人斬り競争

昭和十二年夏、支那事変がおこりました。日本軍は北京や天津をつぎつぎ攻略していき、八月には じまった海での戦いも、十一月には日本軍の追撃戦となりました。そして、十二月一日、首都南京の攻略が決定され十三日、南京が陥落しました。


国内は戦勝に沸き、それに呼応するかのように、十一月末から十二月にかけ、毎日新聞にふたりの将校の華々しい記事が載りました。
記事とは、どちらが早く中国兵百人を斬るか競争が行われているというものでした。向井敏明少尉と野田毅少尉のふたりが、毎日十数人の中国兵を斬りながら南京に向かっているというのです。


そのころの新聞には、このような創作記事がよくみられました。ヨタ記事だと批判されもしましたが、戦争のさなか、戦意昂揚の記事だとして、深く受け止められることもなく、若いふたりの将校の名は有名になりました。

 

ふたりの将校が国内で有名になったころ、中国ではこの記事が殺人競争と歪曲され、南京虐殺のひとつとして、宣伝されていました。
ふたりの将校のみならず、日本のだれもが、殺人競争に作りかえられていることは知りませんでした。

戦争はつづき、向井敏明少尉は歩兵砲の指揮官として戦いつづけました。野田毅少尉も、飛行機の操縦桿を握り、ビルマの南機関に所属し、と戦いつづけました。


昭和二十年になり日本は負けました。南京での戦いは遠い八年も前のことになっていました。
敗戦から二年、突然、ふたりの将校は殺人競争の容疑で南京に連れていかれました。まったく思いもかけぬことでしたが、百人斬り競争はつくり話ですから、説明すれば簡単に理解してもらえると考えていました。
しかし南京の軍事法廷では、南京虐殺が問われ、昭和二十三年一月二十九日、二人は銃殺刑に処せられてしまいます。
遺族たちにとっては、あきらめきれません。運命を悔やむしかありませんでした。

「百人斬り」訴訟とは

朝日新聞が伝えた「百人斬り競争」

それから二十数年経過した昭和四十六年、朝日新聞本多勝一記者が「中国の旅」という連載のなかで百人斬り競争を取り上げました。
そこに書かれたものは、毎日新聞が報じたものとも、南京の軍事法廷のものとも違っていました。
 ふたりは上官の命令で殺人ゲームを行い、百人斬り競争を三度も繰り返した、と書いてあるのです。


その記述に対して、ただちに作家の鈴木明が疑問の声をあげました。そして鈴木明は、ルポルタージュという手法により、百人斬り競争がまったくの虚構であることを明らかにした上、毎日新聞の創作記事がもとにふたりは裁判にかけられ、毎日新聞の記者が創作を認めなかったため、ふたりは死刑になったと明かにしました。
それらをまとめた『「南京大虐殺」のまぼろし』は大宅ノンフィクション賞をもらうとともに、ベストセラーとなりました。
百人斬りが架空であることは、そのころの代表的な評論家や作家だけでなく、小田実など左翼文化人も認めることとなりました。

「百人斬り」訴訟とは 

 南京大虐殺記念館での展示

鈴木明に対して本多勝一は反論できませんでしたが、連載が終わると本多は『中国の旅』を単行本として上梓しました。『中国の旅』には日本人の考えつかないような残虐行為が記述されていたため注目され、多くの人に読まれました。


まったく反論できなかった本多勝一ですが、といって百人斬り競争を書いたことが間違いだったと撤回したわけでなく、そのことには一切ふれず、しばらくすると、百人斬り競争を捕虜のすえもの斬りだと言い出してしまいます。
本多勝一が素直に謝れば、すべてが解決したのですが、逆に居直ったのです。


『中国の旅』はそのまま刊行されたため、何年かすると、百人斬り競争を事実と勘違いする人もあらわれ、小学校の試験にだされたり、昭和六十年に建てられた南京の虐殺記念館では、ふたりの将校の写真が等身大に拡大され、もっとも目を引く展示物とされるようになりました。

「百人斬り」訴訟とは 

百人斬り競争とは戦意高揚のための作り話だったのです。しかし、朝日新聞本田勝一は中国の反響板としての役割を実践。向井敏明少尉と野田毅少尉、そして日本人の名誉は大きく傷つけられました。

その後、遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴され、稲田朋美氏は弁護団の一人として訴訟に加わるも、毎日新聞朝日新聞、柏書房、本多勝一が勝訴。原告敗訴が確定していているのです。

 

 
舞子
酷い話やなぁ。うちが生まれるずっと前に、こんな事があったなんて。それにしても朝日新聞って、ホンマ嫌らしいわ。ゆづも同感やろ?
 
ゆづる
そうだよ、舞子ちゃん。朝日新聞本田勝一が「百人斬り競争」を否定していれば、南京大虐殺記念館の展示にはならなかっただろう。二人の少尉と日本人は、著しく名誉を傷つけられたんだよ。朝日は中国の手先だからね。慰安婦問題では昨年間違いを認めたけど、南京事件ではなしのつぶてなのさ。稲田朋美防衛相が歴史認識を重視しるらしいから、期待したいよね。